だから小説はおもしろい

かずいさんから昨日の文章に対する熱いお返事をいただきました。読んでいて非常に面白かったので、ここに引用させていただきます。

長くなりますので、読みたい方は「続きを読む」でどうぞ。

「むかし、爆弾がおちてきて(@古橋秀之)」感想(別名・586さんへの私信)

えええええ、いきなり本題で申し訳ないですが、私と586さんでは、同じ短編に強いショックを受けたにも関わらず、その「ショックを受けたポイント」が微妙に違っているみたいです。

586さんは「おじいさんの味わった絶望の深さ」に衝撃を受けたと見て、宜しい……ですよね。でも私は、「僕」が時間の琥珀の中へ飛び込んでから、少女が笑って時計がかちりと動くまで、その一瞬で、「現代において過ぎ去ったはずの悠久の時間」を想って泣きました。

柱の内部からすればあっと言う間ですが、外では数百、あるいは数千の年月が過ぎたはずです。お互い見つめ合っていたその一瞬で、世界はどれほどの変貌を遂げ、人は何回代替わりしたことか。その落差に恐怖して戦慄しました。隣り合わせの空間に存在するにも関わらず、絶対的な隔絶。

「僕」が、元々自分の属していた世界から切り離される事を知りつつ、柱に飛び込んだことに狼狽しました。理由が分からないんです。友達も家族も今の己の知る全てを失ってでも、行こう、という、その意思が。

時の柱から外へ踏み出す頃には、人類なんてとっくに滅亡しているかも知れないのに。目の前に広がっているのは、生命活動の無い莫大な荒廃であるかも知れないのに。祖父の「外の世界に残された者の苦しみ」を見ていたのに。全て失うのに。

もしかしたら、彼は現代の世界では孤独だったのかも知れませんし、現代の自分の生活にさしたる意義を感じていなかったのかも知れません。でもそうすると、今度はその「世界から切り離されても構わないほどの虚無」に、また愕然としました。

そして彼の両親や友人は、その一瞬の間にどれほどの苦しみを味わい、そして死んでいったことか。「自分のせいではない」という点で、おじいさんの苦悩とは違う室を持っているとしても、「自分達と生きる時間を捨てていった」という、裏切りに近い絶望は新たに存在するのではないかと。

……あー、なんか、変なところに感情移入してしまったのかも知れません。結局全然纏まらなくて申し訳ないです。

『自分達にとっては悠久の時間を、何事もないように飲み下し、殆ど姿を変えずに今も生きている』

 ……何だかシーラカンスに似ているなぁ、という訳の分からない所感を述べた上で、以上です。

私は「おじいちゃんの心境」を思って衝撃を受け、かずいさんは「過ぎ去った時間」を思って衝撃を受けました。私はかずいさんの意見を受けて「そんな見方もあったのか」と率直に驚いてしまいました。

かずいさんの意見を受けて、その立場から情景を想像してみました。

朝、誰かが公園にやってくる。公園の真ん中には、あの柱がある。柱の中には、あの少女が立っている。戦争が終わって六十年。初めは奇異に映ったであろうこの光景も、人間特有の「順応」能力で「ありふれたもの」へと変わり、人々は何気なくその柱を見る。

しかし、その日は違った。

柱の中に、昨日まではなかったものがある。正確には、いなかったものがいる。人々が柱を覗き込む。

「あの少年だ」

なぜ? どうして? どうしてこの時間の柱の中に、あの少年がいる? 何が彼をそうさせた? 何が彼を柱の中へと衝き動かした?

なぜ、彼は柱の中に飛び込んだ?

話を読む限り、彼が他人にこの「駆け落ち」の理由を語るシーンは存在しません。恐らく、誰にも話さなかったでしょう。友人や知人、家族や親類縁者は、何も知らされぬまま、彼とのつながりを唐突に断ち切られたのです。何の前触れもなしに、突然です。

家族はどのように思うでしょうか。我が子と二度と顔をつき合わせて話すこともできなくなったとあって、両親は正気でいられるでしょうか。別れの挨拶もなしに唐突に永久の別れを告げられて、気を確かに持っていられるでしょうか。

友人はどのように思うでしょうか。昨日まで何気なく話していた人間が、次の日にはもう二度と触れることのできない存在になってしまっている。何か言いたかったこと、言わなければならなかったことがあったとしても、それを言うことは恒久に不可能になったのです。

仮にです。もし仮に彼に恋をしている女の子がいたとしたら、果たしてどのような思いに駆られるでしょうか。自分の思いを伝える時間を与えられる間もなく、彼は過去の少女と二度と戻らぬ駆け落ちをしてしまいました。彼女を襲う感情を考えると、言葉にすることなど到底できません。後悔・悲嘆・嫉妬。あえて言葉にするなら、このような言葉となることでしょう。

かずいさんに言われて、この物語の新たな見方に気付いた気がしました。視点を変えるだけで、またこれほどまでに衝撃的な話になるのです。

これを読んで、作者の古橋秀之氏の言葉が、より強い意味を帯びてくるように思いました。

フルハシ > どうもどうも。「感動する(させる)力」みたいなものは、本とか作者より、むしろ読む人の中にあるのだと思います。だもんで、喜んでもらえると、こちらとしてもありがたいことだなあと、ハイ。

私やかずいさんが受けた「衝撃」は、私やかずいさんの「想像」に拠るところが大きいです。話自体は21ページの短く簡潔なもの。読み飛ばそうと思えば、読み飛ばせる分量です。なのに私やかずいさんは、その短い話に多大な衝撃を受けました。

しかも、私とかずいさんとでは、受けた衝撃の性質がまるで異なるものになっています。

私はここに、「小説の面白さ」が凝縮されているような気がしました。

読者が想像力を働かせることで、描かれていない情景や光景を頭の中に造り上げ、そこから「自分なりの」感動を引き出す。小説が面白いのは、感動が受動的なものではなく、能動的なものだからだと思います。書かれているもののみならず、書かれていないものからも、自力で感動を引き出す。感動の性質が「能動的」ゆえの「感動」だと思います。

古橋さんの述べた言葉は、「感動する」という視点から見た「小説」を考える上で、これ以上なく的を射た言葉だと思わずにいられません。

かずいさんは「視点がずれていて申し訳ない」「ヘンなところに感情移入してしまったのではないか」と仰っていますが、とんでもない!私は私で感動した部分がありますし、かずいさんはかずいさんで感動した部分があります。

読者一人一人が異なる感動を抱くということは、作品にそれだけの「深さ」があることに他なりません。作品に「深さ」があるからこそ、読者の感動が異なるものになるのです。読者の想像力を刺激し、読者一人一人なりの感動を引き出させるということは、並大抵の能力ではできません。

うまくまとめられないのがいささか歯がゆいのですが、とにかく私が言いたいことは、

読者の想像力を刺激し、読者に感動を自力で引き出させる作品はすばらしい

ということなのです。

長くなりましたが、以上です。